3月4日、早稲田松竹に行ってきました。
黒沢清の二作品を観に行きました。
「カリスマ」と「CURE」です。両方ともかなり良い映画で、両方とも考える映画なので、連続で見るのはなかなか疲れるのですが、それでも、吸い込まれるようにスクリーンを睨みつけていました。
カリスマ
世界の法則を回復せよ。
唐突な、インパクトのあるフレーズを冒頭部分で投げかけられ、そこから、片方が生きるために、もう片方は死ぬ。どちらを救うにしても犠牲を払う。どうにかして、両方を救えないのか。という問いがこの映画全体を取り巻く。
カリスマと呼ばれる木が存在するのかそれとも存在しないのか。この幻想と現実の間で人々が困惑する。そのうち、カリスマが存在しないという事に気づいた者こそがカリスマであるといっているようだった。
すごくこの作品を見ていて、気になったのが、内なる世界と外の世界の関係性である。
役所広司演じる刑事はあるきっかけとなる事件で、犯人と人質の両方の命を救えなかったことから、奇妙な不思議な村にやってくるのだが、断続的に刑事のときの上司から電話が来たりと、内界と外界がリンクするところがある。
もっとも印象的なのは、最後のシーンだ。
いくつものヘリコプターが、役所広司の頭上をものすごい勢いで通り、街でもなんだかおかしなことが起きている。これは、カリスマの木を爆発し、その下にまた新たな芽が生まれてくるシーンと同じ事が、外の世界、街で起きるのではないかと感じた。
つまり、破壊する事で、新たなものが生まれる。
全体を通して、かなり哲学的で重い映画ではあるが、かなり表現が洗練されていて、印象が残るシーンが必ず、出てくる。そんな映画でした。
CURE
恐怖そのものを描くのって実はかなり難しい。
恐怖だけじゃなくて、感動や歓喜など人間が感じるものってそのものを描くのではなくて、だいたい、それを感じている人を描く事が多い。
恐怖の場合、叫んで逃げ回る人だったり、恐怖を感じる空間でわめく人間、すごく静かな風景など、対象がメインでとられる。
しかし、この映画に関しては、そこが違う。
はっきり言うと、映像で目をふさぎ込みたくなるシーンは無いと言っても良いくらい普遍的なイメージが多い。
映画の中で起るさまざまな人々自体が恐怖に感じる。そんな映画でした。
凄く日常の中に恐怖を描く事で、ねじれた世界観がダイレクトに恐怖を視覚化してくれた。
レストランのウェイトレスが包丁を持っているシーンはかなり印象的だった。
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